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2008年05月21日

第5回 塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催案内

第5回塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催のお知らせ

日頃は、岐阜市の歴史学習とまちづくり等で大変お世話になり心から感謝申し上げます。
第4回目の会議では、岐阜市老洞にある須恵器窯跡を皆さんで実際に見学することを中心に、まちあるき学習と塔心礎に関する会議を実施いたしました。

そこで、次回第5回目の会議の日程や当日の学習内容等が決定しましたので、以下のとおりご案内申し上げます。お知り合い等の方々をお誘い併せの上、ご参加くださいますようご案内申し上げます。
尚、当日は、直接以下ご案内の、各務原市埋蔵文化財調査センターに集合してください。会場周辺の駐車場には限りがございますので、お車でおこしの場合には、できるかぎり乗り合わせてご参加していただけると幸いです。よろしくご協力お願い申し上げます。

会議名 : 第5回塔心礎から岐阜のまちを考える会

開催日 : 平成20年5月31日(土)(雨天決行)

開催時間 : 午後1時30分~午後4時まで(受付開始:午後1時)

開催場所 : 各務原市埋蔵文化財調査センター
(名鉄各務原線 市民公園前駅下車徒歩3分)
場所:岐阜県各務原市那加門前町3丁目1-3
電話:058-383-1123

参加費 : 無料

主な内容 : 各務原市埋蔵文化財調査センター見学
山田寺跡発掘調査現場と塔心礎の見学 平蔵寺跡見学等

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※上記に関するお問い合わせ先:

塔心礎から岐阜のまちを考える会 和田まで 携帯:090-3157-3315

電子メール :awada@ha-telecom.co.jp

ホームページ:http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/1_2/2_1/3_3/

2008年04月28日

第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催報告

image 去る平成20年4月26日(土)午後1時30分から、岐阜市の東部コミュニティーセンターにおいて、第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会が開催された。

当日は、まず冒頭、参加者の自己紹介のあと、第3回の塔心礎から岐阜のまちを考える会の報告があり、そのあと本題の議題に入った。

今回で4回目となる塔心礎から岐阜のまちを考える会は、年代的には1300年前の塔心礎が発見された少しあとに、岐阜市内老洞で今から30年前くらいに発掘された須恵器窯 跡の研修と現地見学をすることを重点において開催された。

imageまずはじめに、岐阜市教育委員会社会教育課の高橋さんから、須恵器窯跡が、どのように発見されたか?から話があった。それは、30年前に岐阜市藍川中学校の生徒が、中学校の近所で遊んでいるとき、偶然、落ちていた土器を発見したことによる。この話も興味深いが、それが、古代奈良時代の古窯跡であったことがすごい歴史的発見につながったことで、この地域で、当時多くの土器(須恵器と呼ぶ)が発掘されたということだ。

当日、高橋さんが用意した資料は、以下のとおりで、内ひとつは、老洞古窯についてで、土器には、「美濃」「美濃国」という文字が刻まれていた。つまり、この土器の発見により、この地が美濃とその当時呼ばれていたことを物語る。また、これらの発見により、美濃という地名の起源ともされている重要な発見であった。

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須恵器窯跡は、現在は、埋め戻して当時の面影を残すのみとなっているが、その詳しいレプリカが、東部コミュニティーセンター近くにある「リフレ芥見」の正面玄関に展示してある。高橋さんの話のあと、「リフレ芥見」に参加者全員で、見学となった。

image「 リフレ芥見」の展示場には、須恵器窯跡の発掘された当時の模型と発掘された土器等が展示されている。そこで、高橋さんや同席した岐阜市教育委員会の内堀さんや横田さんからも説明を受けた。展示ケースの中には、「美濃」と刻印された陶印(陶器の印鑑)が展示されていて、歴史的な発見として位置づけられている。

image これらの土器は、岐阜県や愛知県でも、発見されており、塔心礎で古代寺院が建立されていた頃、このような土器を人々が利用して生活していたことをうかがわせる貴重な発見となっている。

その後、参加者たちは、高橋さんたちの案内で、老洞の須恵器窯跡発掘調査現場を見学した。そこは、現在は、岐阜市の和光団地のすぐ南山斜面にある。
image 須恵器窯跡は、山の斜面をうまく利用して登り窯のようになっており、この窯から多くの須恵器が製造されたとみられる。須恵器窯跡から、多くの土器も当時発掘された。

また、須恵器窯跡の近所には、朝倉古窯跡も発見されており、この地の土壌が土器を製造するに適していたことを物語っている。内堀さんの話によると、最近この地で河川工事があった時、河川の中に、白い堆積土が多くみられたimageとの報告もあり、やはりこの地方の川が運んだ堆積土が、土器製造に適していたことが、この地に須恵器窯跡をつくるに至ったのではないか?と推測する。

参加者たちは、その後、再び東部コミュニティーセンターに戻り、見学後の質疑応答 と意見交換を実施した。その中で、参加者から、塔心礎のあったことの生活様式の一部をうかがい知ることができ、大変勉強になった。美濃と地名が、この時代から言われていることに驚きを感じた。自分達のimage 住んでいる地域のことが少しでも知ることができてうれしかった等々の感想が述べられた。また、要望として、発掘調査跡が、現地でよく分かるような案内標識もあるとよかった。など意見がだされた。また、将来的な意見として、歴史と地域の関わり方などの考察してみてはどうか?などの意見も出され、第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会は第5回のお知らせをして終了した。

次回第5回は、岐阜市内の塔心礎と同時期に建立された資料が残されている、各務原市埋蔵文化財調査センターで来る平成20年5月31日(土)に開催する予定。詳しくは、このページで紹介します。お楽しみに!

2008年04月14日

第4回 塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催案内

第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催案内!

塔心礎から岐阜のまちを考える会の第4回開催案内を以下の通りお知らせいたします。万障繰り合わせて、4月26日(土)は、ご参加ください。

開催日時:平成20年4月26日(土)午後1時30分から午後4時まで

開催場所:岐阜市東部コミュニティーセンター 大集会室
岐阜市芥見4丁目80番地(TEL 058-241-2222)
詳しい地図はこちら

参加費 :無料

主な内容:

1300年前の塔心礎とほぼ同時期の須恵器窯跡の話と現地見学を実施します。

image・「国名を刻んだ土器」(岐阜市社会教育室:高橋方紀氏)

・老洞・朝倉古窯跡の現地案内まちあるきと見学

※第4回目の開催主旨は、第3回(平成20年3月29日開催)の研究をもとに、塔心礎があった時代背景を知る上で重要な須恵器窯跡の話と現地見学をすることで、塔心礎があった古代を幅広く研究することにあります。

image  上図は、美濃国の陶印と、須恵器を焼いた窯

※上記お申し込みご希望の方は、ココをクリックしてお申し込みください。

※上記に関するお問い合わせ先:
塔心礎から岐阜のまちを考える会 和田まで 携帯:090-3157-3315
電子メール :awada@ha-telecom.co.jp
ホームページ:http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/1_2/2_1/3_3/

2008年03月29日

第3回塔心礎から岐阜のまちを考える会が開催されました。

image 去る、平成20年3月29日(土)午後1時から、第3回塔心礎から岐阜のまちを考える会が、岐阜市歴史博物館2階の講座室にて参加者20名で開催されました。今回は、週末の土曜日と、年度末、お花見等の影響で、参加者は、通常よりは、やや少ない感じでしたが、天候には恵まれました。

さて、第3回目の塔心礎から岐阜のまちを考える会では、実際に塔心礎を見学することを目的に開催されました。

image 最初に、高木岐阜市歴史博物館館長の案内で、岐阜市歴史博物館を参加者全員で見学しました。高木館長からは、2階の展示場の正面にある厚見廃寺(現在の瑞龍寺)の五重の塔の模型の解説があり、そのすぐ横に展示してある、古代奈良時代の展示物の説明がありました。厚見廃寺、大宝廃寺や、鍵屋廃寺のあった場所から発掘された軒瓦の展示物を前に、参加者たちは、熱心に高木館長の話に聞き入っていました。その後、参加者達は、自由に館内を見学しました。

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2番 目に、参加者達は、岐阜市歴史博物館の正面玄関にでて、今日のお目当ての塔心礎を見学しました。ここでも、高木館長から、この塔心礎が、岐阜市文化センター工事現場から25年ほど前に発見されたことや、塔心礎の形状や、どうして岐阜市歴史博物館に展示されてきたか等の詳しい経緯が参加者を前に話されました。参加者たちも、興味深く熱心に塔心礎を眺めていました。

image3番目に、参加者達は、金華山ロープウィの乗り場に隣接する岐阜公園の三重塔を見学しました。今日は、ここの管理をしている岐阜市公園整備室の栗木さんが、三重塔の中まで案内し、三重塔が、どのようにできたか?など、岐阜市教育委員会社会教育室の内堀さんからの解説を交え、案内しました。この三重塔は、大正天皇御大典記念事業として大正5年に建立されたものです。imageまた、建物の構造は、4本の柱の中心に、直径約 60センチくらいの太い心柱が、吊り下げられている構造となっており、これが、建物全体を地震などから守られるように免震構造の役目をしていることも解説された。また、この三重塔は、当時長良川に架かる長良橋の古材を使って建造されたことや、建築場所を、画家の川合玉堂が、金華山を眺めて選定したことなどいろいろなエピソードが言い伝えられている。今回の塔心礎は、時代が大きく違うが、こうした三重塔を見学して1300年前の塔を支える塔心礎との関連を想像しながら当時に思いはした。

image 見学の最後は、現在、岐阜市が今年度からはじめている信長居館発掘調査現場の見学である。岐阜と命名した織田信長は、当時この地に居城を構えていた。特に安土城を建造するまでの9年間、岐阜のこの地に住んでいたと言われており、その居館の発掘を手がける岐阜市教育委員会社会教育室の高橋さんの案内で、今年度発掘が行われた現場を中心に詳しい説明がなされた。参加者達も、高橋さんの発掘してきて分かったことなどを中心に聞き入っていた。また、現場では、質疑応答も行われ、参加者達も、来年度も引き続き発掘が行われる調査現場を熱心に見て廻った。尚、この信長居館発掘調査の詳しい内容は、以下のホームページを参考にしてください。

■信長居館発掘調査ホームページ:
http://www.nobunaga-kyokan.jp/blog/

さて、この日の会議は、岐阜市歴史博物館に戻って実施されました。この日の、見学に関する質疑応答などを中心に実施されました。

次の第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会は、このページでも予告しましたように、来る平成20年4月26日(土)午後1時30分から、岐阜市東部コミュニティーセンターで、塔心礎に関連して、1300年前と同時期の土器が発掘された、須恵器窯跡の話と現地見学で開催します。

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詳しくは、以下の第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会の予告ページを参照してください。

事前のお申込みは、以下のページで!
http://www.hatele.com/app/app2.cgi

■塔心礎から岐阜のまちを考える会に関するお問合せ先:
塔心礎から岐阜のまちを考える会 和田まで 携帯:090-3157-3315
電子メール :awada@ha-telecom.co.jp
ホームページ:http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/1_2/2_1/3_3/

2008年03月01日

第3回 塔心礎から岐阜のまちを考える会は、3月29日(土)に決定!!

image第2回目の会議では、岐阜市文化センターから出土した塔心礎に関連して、周辺住民の方や、(財)岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所からの「古地図から見る岐阜のまち」等について、それぞれ詳しい説明がなされました。 第2回の詳しい内容は、ここをクリック

そこで、第3回目の会議は、岐阜市歴史博物館にある塔心礎(上記写真参照)を皆さんで実際に見学することを中心に、周辺のまちあるき学習と塔心礎に関する会議を行うことになりました。

image 日程や当日の学習内容等が決定しましたので、以下のとおりご案内申し上げます。お知り合い等の方々をお誘い併せの上、ご参加くださいますようご案内申し上げます。

尚、当日は岐阜市歴史博物館から岐阜公園内を若干歩きますので、歩行できるような服装具でご出席いただきますよう併せてご案内申し上げます。

会議名 : 第3回 塔心礎から岐阜のまちを考える会

開催日 : 平成20年3月29日(土)(雨天決行)

開催時間 : 午後1時~午後4時まで(受付開始:12時30分)

開催場所 : 岐阜市歴史博物館 2階講座室(※参加者が多い場合は、1階講堂で実施します)電話:058-265-0010

参加費   : 無料

主な内容 : 岐阜市歴史博物館見学 → 塔心礎を見学 → 岐阜公園内にある三重塔見学 → 信長居館発掘調査現場見学 → 岐阜市歴史博物館へ戻って会議

以上

※上記お申し込みご希望の方は、ココをクリックしてお申し込みください。

※上記に関するお問い合わせ先:
塔心礎から岐阜のまちを考える会 和田まで 携帯:090-3157-3315
電子メール :awada@ha-telecom.co.jp
ホームページ:http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/1_2/2_1/3_3/

2008年02月28日

第2回 塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催報告

image 去る、平成20年2月27日(水)午後7時から、金神社神社会館4Fホールにて、第2回塔心礎から岐阜のまちを考える会が開催された。

塔心礎から岐阜のまちを考える会は、第1回を1月23日(水)に同会館にて発足しており、今回は、その2回目の会合となった。参加者は、1回目とほぼ同じ約30名であった。

この日は、まず最初に、集まった参加者が、自己紹介したあと、司会者のほうから以下の内容で会議が行われた。

1.第1回会議報告(平成20年1月23日実施済み)

▽塔心礎について説明会

① 岐阜市教育委員会社会教育室 高橋さんから 塔心礎とは?について
② 岐阜市教育委員会社会教育室 内堀さんから 塔心礎の分かりやすい紙芝居③ 岐阜市歴史博物館 高木館長さんから 歴史博物館と塔心礎について
▽塔心礎をふるさと(岐阜市文化センター・金公園)にもどす初期提案について
▽質疑応答&意見交換会を実施しました。
▽会の名称を「塔心礎から岐阜のまちを考える会」と決定。
月1回の勉強会と会議を持つことを目標にすることも決定しました。

2.第2回会議内容

1. 塔心礎のふるさと岐阜市文化センターの周辺住民の方々から、この地区の今昔についてお話を伺います。

① 赤尾さん(岐阜市西玉宮町一丁目の自治会長さん)から

2. (財)岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所 井川さんから
「古地図から見る岐阜のまち」について [資料参照]

3.長良川文化フォーラムの柴田会長から、2月16日に開催した、関の弥勒寺官衛遺跡群見学について報告。

4.岐阜大学地域科学部 富樫准教授から、「ぎふの河川とまちづくり」について話があった。

5. 質疑応答

6.意見交換会

それでは、第2回目の会議の詳細について、以下報告します。

image最初の立った、岐阜市西玉宮町一丁目の自治会長さんである赤尾さんからは、塔心礎が発見された岐阜市文化センターの戦前の様子について詳しい説明があった。この中で、岐阜市文化センターの周りには、戦後、ものすごい家が急速に立ち並んでいった印象が強いということ。また、金神社の裏には、木がうっそうと立ち並んでいたことなどの、文化センター周辺の今昔についての話があった。

image 次に、(財)岐阜市教育文化振興事業団埋蔵文化財調査事務所 井川さんから「古地図から見る岐阜のまち」について、パネルを持ち込んでの話があった。
古地図は、幕末頃の上加納絵図(資料1参照)について説明があった。この古地図の中で、現在の市役所(赤マーク)や、金神社(黄マーク)、JR岐阜駅(赤マーク)の位置が示されており、現在と比較して大変分かりやすい説明があった。この中では、金神社の南に参道が南北に伸びていることがわかる。その先に玉宮の文字が浮かんでいる。このあたりが、現在の玉宮町商店街であろう。また、御鮨街道(現在の美園町の南北の 通り)が、はっきり見えており、尾張からの人々の往来があったことを古地図はうかがわせている。井川さんからは、幕末の頃は、人々が多く住んでいた場所が、ちょうど金神社のあたりから東側に広がっていたことなども報告された。

image資料1

また、終戦直後の米軍撮影空中写真(資料2)も資料として提出された。さらには、明治21年頃の字絵図と現在の地図の合成(資料3)も資料として提出された。

image 資料2

image 資料3image 資料4

井川さんの説明のあとで、長良川文化フォーラムの柴田会長から、平成20年2月16日に開催した関市の弥勒寺官衛遺跡群(資料4)の見学について報告があった。関の弥勒寺官衛遺跡群にも、塔心礎があり、ここは、かなりの大きさ(直径約2メートル)があり、五重塔が建っていたことをうかがわせている。今回の話題になっており塔心礎も、弥勒寺と同時代のものといわれている。よって、関の弥勒寺官衛遺跡群は、ここの塔心礎を考える上で大変参考になる遺跡群である。
この件についてのレポートは、このページでも、紹介していますので、以下のアドレスをクリックして参考にしてください。
http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/2008/02/post_88.html

image その後、岐阜大学地域科学部 富樫准教授から、「ぎふの河川とまちづくり」について話があった。富樫准教授は、岐阜市内の河川が、古代からまちの重要な地形と成っていて、その近くに代表的な古代寺院が建立されていたことなど伺わせる解説があった。

その後、会議に移り、質疑応答と、意見交換会が実施された。

意見交換会では、塔心礎が、岐阜市の現在の中心市街地にあったことにより、そこから何が想像できるか?などの意見があった、東に厚見廃寺(現在の瑞龍寺)と、この大宝廃寺、西に鍵屋廃寺と、1300年前に、古代寺院があった美濃国。

壬申の乱後に、天武天皇の命を受けて、律令制度が確立され、日本各地に拡がっていった仏教。地方の教育の場としての、古代寺院の建立。日本が、しゃんとなっていく課程の原点が、塔心礎から伺えて来る気がするが、いかがでしょうか?

最後に、塔心礎から岐阜のまちを考える会は、第3回目の会議の日程の打ち合わせを行い、次回は、3月29日(土)午後1時から、岐阜市歴史博物館で開催し、実際に、塔心礎を見学することを目的に実施されることとなった。詳細は、このページで発表します。乞うご期待を!

2008年02月25日

塔心礎から岐阜のまちを考える会 2月27日(水)午後7時 開催

塔心礎から岐阜のまちを考える会が、以下の日程で開催されますので、ご案内します。

開催名 : 第2回 塔心礎から岐阜のまちを考える会

開催日時 : 平成20年2月27日(水) 午後7時から9時まで

開催場所 : 金神社神社会館 電話:058-262-1316

参加費 : 無料 (歴史とまちづくりに興味のある方なら、誰でも参加できます。)

image第2回会議の主な内容 :

岐阜市文化センター周辺の地域住民の方々から、この周辺の昔の街並みや様子について語っていただきます。その後、岐阜市埋蔵文化財調査事務所の井川さんから、江戸時代の古地図について資料に基づきお話をしていただき、質疑応答後に塔心礎についての意見交換会を実施します。

※塔心礎についての詳しい内容は、第1回目の会議の様子http://www.hatelecom.or.jp/~mg100/archives/2008/01/post_79.htmlを参照してください。

この件に関する詳しいお問い合わせ先は、下記まで

お問い合わせ先:「塔心礎から岐阜のまちを考える会」 和田まで
メール:awada@ha-telecom.co.jp
               電話:090-3157-3315

2008年02月06日

岐阜市内の3つの古代寺院

image 岐阜市文化センターを今から25年ほど前に建築した際、見つかった古代寺院跡のものと思われる塔心礎は、1300年ぶりに、今また、市民によって、岐阜市の歴史の表舞台に出ようとしています。

1300年前、この地方は、厚見郡といわれていたようで、そのなごりが、現在も地名に使用されている。

また、上図(クリックで拡大)は、1300年まえの岐阜市内の古代寺院のあったところを地図に落としたもので、この地図をみて推測するに、現在の木之本校下にある鍵屋廃寺(現在の、鍵屋北野神社の辺り)と、徹明校下にある大宝廃寺(岐阜市文化センターの辺り)と、梅林校下にある厚見廃寺(現在の瑞龍寺の辺り)と、岐阜市内の中心市街地を東西に、ほぼ1直線で結ばれる位置に建っていたことが推測される。

ここには、現在の徹明町通りから金園町通りに至る東西の道路が走っており、この道の西には、現在の鏡島の辺りで、長良川にぶつかることから、古代、この辺りで、物資などを運び入れる港があり、港からまっすぐ東に向かう物資を運ぶ道が伸び、その道沿いにほぼ等間隔で、3つの古代寺院(西から鍵屋廃寺、大宝廃寺、厚見廃寺)が建ち、古代寺院の周りに、人々が集まり賑わいが生まれ、仏教を教える場となっていたと推測する。

こうした事より、岐阜市の中心市街地は、もともと1300年前には、現在の柳ヶ瀬をはじめとする中心市街地の東西に広がる地域に賑わいを見せて存在していた?と思われる。

これら岐阜の1300年前の古代歴史調査等から学ぶことにより、最近、めっきり賑わいを失いつつある岐阜市中心市街地の活性化を願い、元気の出る街に再生しようと集まった市民活動として、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」の発足は、今後、楽しみになってきた。

「塔心礎から岐阜のまちを考える会」は、来る2008年2月27日(水)19時から金神社境内金神社会館で開催されます。ご関心のある方は、どなたでも自由に参加できます。

お問い合わせ先:「塔心礎から岐阜のまちを考える会」
電話:058-251-2101 和田まで

2008年01月25日

塔心礎の歴史 シリーズ第5弾 修羅(しゅら)について

去る1月23日(水)に開催された、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」で、提出資料の最後は、修羅(しゅら)という、古代の石などの重量物を運搬するときに使用された道具(ソリ)についてです。

第1回の塔心礎についての会議のときに、基本提案として、塔心礎を大宝廃寺のあった岐阜市文化センターまで、岐阜市歴史博物館前から、伊奈波神社→櫑森神社→美殿町→柳ヶ瀬→金神社→岐阜市文化センターへ、市民で人力で運んではどうか?と言う原案が出されました。

その際、1300年前の頃の、大きな石等を運ぶ運搬具として、修羅(しゅら)という木製のソリを当時の人々は使ったのではないか?と思われています。

これは、下記の資料4にもあるように、V字型の木製のソリで、大阪府藤井寺市にある、古代・中世の古墳跡などから発掘されている。当時の人々は、修羅(しゅら)を使って、巨大な石などを運んだことが、歴史的に言われている。

image 資料4

代表的な修羅(しゅら)は、1978年に大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳から発掘された。当時は、大きな発見で、日本中の話題をさらい、たくさんの報道もされ、多くの見学者が訪れたという。さらに、藤井寺市では、この発見で、「修羅曳き」なる市をあげての市民による実験も行なわれた。
詳しくは、大阪府藤井寺市の「修羅を曳く」ページ参照。

藤井寺市で発見された修羅(しゅら)は、5世紀ごろのものとされており、古墳内の石棺の運搬等に使用されたのではないか?といわれている。

そこで、岐阜市内にある塔心礎の運搬も、当時の歴史背景を再現する形で、この修羅(しゅら)に載せて人力で引っ張って、目的地まで運搬してはどうか?という原案が提出された。

今後、、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」では、塔心礎の歴史をだんだんと研究していく中で、市民創意工夫のもとで、こうした原案をもとに意見集約し、運搬方法等について検討していく予定です。

塔心礎の歴史 シリーズ第4弾

今回は、塔心礎のあった大宝廃寺に焦点を当ててみたいと思います。

大宝廃寺は、7世紀後半に、今の岐阜市文化センターや、金公園、徹明小学校のあたりまで広い範囲に、岐阜市文化センター建設時、基礎工事の掘削時に見つかった塔心礎の発見から、建立されていたのではないか?と伝えられています。

image 現在も、岐阜市文化センターの周辺は、周辺地域に対し、小高い地形となっていて、自転車などで、近辺を走ると坂になっていることが良く見て取れます。
また、現在の大宝寺境内から徹明小学校にかけて、当時の瓦が見つかっており、現在は、岐阜市歴史博物館などに収蔵されている。
(右の写真参照)

こうした、この地域の発掘から、大宝廃寺は、ここに建立された寺院で、7世紀後半の創建になる寺跡であったことがうかがえる。

大宝廃寺が、どんな姿で建っていたか?は、まだ、はっきりしていないが、壬申の乱以降に、岐阜県に点在する寺院跡と同じ時代に、この地方の権利をもった豪族が、天武天皇などの朝廷の命を受けて、建立したことは、おおかた間違いないものと思われる。(資料3参照。クリックで拡大)

image 資料3

2008年01月24日

塔心礎の歴史 シリーズ第3弾

7世紀から8世紀にわたり、岐阜市内には、4つの大きな寺院が建立されていたことがシリーズ第2弾の岐阜の白鳳寺院のところで、お知らせしましたが、では、岐阜県全域では、どのくらい建立されたのでしょうか?と言う疑問が生じてきます。そこで、今回は、美濃・飛騨の白鳳寺院についてお知らせします。(下記資料2参照。クリックで拡大)

美濃・飛騨の白鳳寺院

仏教が朝鮮半島の百済からヤマトの朝廷に伝えられたのは、538年といわれています。飛鳥時代には、第2弾でお知らせしたとおり、飛鳥寺、法隆寺などの有名な寺院が造営されました。その後、仏教が近畿地方から、美濃飛騨地方にも伝わるに伴い、寺院がそれぞれの地方の豪族たちの手で建立されるようになりました。

美濃の豪族と、ヤマトとの結びつきは、飛鳥川原宮跡に建立された、官寺の川原寺の系統の瓦が、美濃の各地で出土していることからもうかがえる。川原寺の系統の軒丸瓦が出土したのは、弥勒寺跡(関市)、山田寺跡(各務原市)、平蔵寺跡(各務原市)、大隆寺廃寺跡(大野町)、席田廃寺跡(糸貫町)、厚見廃寺跡・大宝廃寺跡・鍵屋廃寺跡(いすれも岐阜市)などである。

飛騨における白鳳期の代表的な寺院跡には、寿楽寺廃寺跡(古川町)、杉崎廃寺跡(古川町)、石橋廃寺跡(国府町)、光寿庵跡(国府町)、三仏寺廃寺跡(高山市)などがある。

こうして、美濃・飛騨には、この時代に古代寺院が、49箇所も建立されている。いかに壬申の乱で勝利した第40代天武天皇に味方し、功績のあった岐阜県内の豪族達が、朝廷からの命を受けて各地に古代寺院を建立し、こうした古代寺院を中心に仏教を拡げていったと思われる。

大宝廃寺の塔心礎もこの時代、岐阜市の中心に建立され、1300年もの時代を経て、今、ここに注目されるに至っている。

しかし、現在の岐阜市の中心あたりに3つもの古代寺院が建っていて三重塔か五重塔が建っている姿を想像するだけで、壮観な景観であったと思われます。ここで、改めて、壬申の乱後の天武天皇の中央集権国家の基礎的国造りが、圧倒的な迫力で岐阜県内でも進んでいったと思われます。
そして、こうした古代寺院の周りには、街中のオベリスクとしての高い塔に人々が集まり、賑わいをみせていただろうし、市場などもあったに違いない。また、仏教を民に説く教育の場としての、金堂・講堂の存在も想像に固くないと思われる。

つまり、塔心礎の塔で民の心をひとつにし、教育を施し、そこで学んだ民が街を発展させていったと想像します。すごい!!

image 資料2

1月24日中日新聞朝刊に塔心礎会議の記事が掲載されました。

1月24日の中日新聞朝刊に、1月23日に開催されました、「塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)」からその後、正式に「塔心礎から岐阜のまちを考える会」と会議の名前が決定した塔心礎会議のニュース記事(以下新聞記事クリック参照)が、掲載されました。

image 1月24日中日新聞朝刊記事

※インターネットでは、こちらの中日新聞ホームページに同様の記事掲載がございます。

塔心礎の歴史 シリーズ第2弾

このページでは、去る平成20年1月23日(水)に開催された「塔心礎から岐阜のまちを考える会」で、使用されました岐阜市教育委員会提出の資料を元に塔心礎についてお伝えしたいと思います。

今回は、塔心礎の歴史背景についてです。

律令制と美濃

塔心礎ができた時代は、古代・中世のころで、日本では、国の制度が変わり、様々な信仰が生まれた時代でした。7世紀になると、大化の改新、壬申の乱を経ながら、日本は、国家としての体制が整えられていきます。672年の壬申の乱では、美濃の豪族たちが、大海人皇子(おおあまのおおじ)のちの天武天皇側に協力し、勝利に大きく貢献したと伝えられています。

その後、律令制度が次第に整備され、大宝2年(702年)刑法としての「律」と、行政法・民法としての「令」から成る大宝律令が制定されます。これにより日本は、天皇を中心とした中央集権国家の基礎が確立されていきます。

岐阜の白鳳寺院

6世紀中ごろになると、朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来します。奈良では、飛鳥寺、法隆寺などの寺院が建造され、仏教文化が花開きます。仏教は次第に地方へと波及していき、美濃でも7世紀なかば過ぎには最古の寺院が登場します。

白鳳時代に建造された岐阜市周辺の寺院は、4箇所と知られています。いずれも7世紀後半の造営で、厚見廃寺(今の瑞龍寺)、大宝廃寺(今回の塔心礎がみつかった寺)、鍵屋廃寺、長良廃寺です。大宝廃寺では、塔心礎のほかに、軒瓦なども出土している。(詳細は、末尾の資料1を参照クリックで拡大)

これらの寺院は、中央政権から技術的援助のもと、壬申の乱に功績のあったこの地方の豪族が主体となって氏寺として建立したと考えられている。

末尾の資料の中には、厚見廃寺(今の瑞龍寺)にある、塔心礎の写真があり、当時の面影が漂っています。

image 資料1

岐阜市文化センターの工事で見つかった塔心礎 シリーズ第1弾

昭和57年から58年にかけて建設された岐阜市文化センターの工事で見つかった塔心礎は、1300年前、ここに大宝廃寺(だいほうはいじ)というお寺が建っていてその中の三重塔か五重塔か?まだはっきりしないが、その塔の礎石であろうと言われている。(下図参照:岐阜市教育委員会提供。クリックで拡大)

image その発見された塔心礎は、現在は、岐阜市歴史博物館正面玄関右の公園内に展示されている。

形は、上面が平らで、全体は、渋柿を吊るしたような形をしていて、砂岩でできているという。

現在、岐阜市歴史博物館では、同時代に建造された、厚見廃寺(現在の瑞龍寺)に建っていたと言われる五重塔の模型があり、現在でも、梅林の瑞龍寺山門左には、同時期の塔心礎がある。そこで、岐阜市文化センターからも、塔心礎が発見されたことから、厚見廃寺の五重塔のような大宝廃寺(だいほうはいじ)の塔が立っていたのではないかと考えられている。

塔心礎の真ん中には、ほぞ穴(心柱のすべり止めの穴)が空いていて、ここに塔の心柱の根元の部分があったと考えられている。

塔心礎の歴史は、7世紀から8世紀頃で、日本では、壬申の乱後と考えられている。

塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)が開催されました。

去る、平成20年1月23日(水)午後7時より、金神社神社会館で、塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)が、関係者約30名(右下の写真)が集まって、最初の会議が行われました。

image 当日は、まず、岐阜市文化センター建設時に見つかった塔心礎(約1300年前)とは?と演題で、岐阜市教育委員会社会教育室の高橋さんから、塔心礎とその時代背景等の歴史的な説明があり、その後、同室の内堀さんから、塔心礎の歴史等を分かりやすく紙芝居(左下の写真)を使って説明がありました。また、同席した岐阜市歴史博物館の高木館長さんから、歴史博物館と塔心礎という演題で、歴史博物館前に展示してある塔心礎の話がありました。

image その後、現在の塔心礎をふるさとの岐阜市文化センター周辺にもどす理由や、もどす方法などの初期提案が、発起人から説明があり、岐阜市等からの歴史的な塔心礎の解説と初期提案等に対する、出席者からの質疑と意見交換が実施されました。

会議の中では、岐阜の歴史を勉強する良い機会で、もっと県外にも発信できるようにしていこう!とか、子ども達にも知らせていこう!とか、岐阜市の中心軸を取り戻す良い機会にしよう!とか、岐阜を楽しく学ぶ機会にていこう!等々の活発な意見交換があった。

最後に、会の名称は、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」と決定し、今後、一般市民に、岐阜の1300年前の歴史を知っていただく機会にし、最初に集まった出席者等から徐々に呼びかけ塔心礎から岐阜のまちの歴史を学ぶ市民の輪を拡げて行こう!と言う事で話し合いがまとまった。

次回の、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」は、平成20年2月27日(水)午後7時から金神社神社会館となった。

この件に関する詳しいお問い合わせ先は、下記まで

お問い合わせ先:「塔心礎から岐阜のまちを考える会」 和田まで
メール:awada@ha-telecom.co.jp
                    電話:090-3157-3315

尚、このページでは、塔心礎について、シリーズで当日説明があった歴史資料等を情報発信する予定です。今後をお楽しみに!

2008年01月10日

塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)開催のお知らせ

塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)開催のお知らせ

日頃は、岐阜市の中心市街地のまちづくりで大変お世話になり心から感謝申し上げます。

image さて、今般、現在の岐阜市文化センターを建築した際、発掘されました1300年前の塔心礎は、発掘後、岐阜市歴史博物館に展示され、その後、岐阜市歴史博物館玄関先に設置されています。

そこで、元々あった岐阜市文化センター周辺の金公園に塔心礎を戻そうという、最近の動きを鑑み、以下の通り、塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)を開催したいと思いますので、ここにご案内申し上げます。

当日は、発掘されました塔心礎の歴史等について、岐阜市などからご説明をいただき、会議をすすめていきたいと考えておりますので、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

会議名 :塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)

開催日 :平成20年1月23日(水)

開催時間:19時から

開催場所:金神社境内 神社会館3Fホールにて

以上

※上記に関するお問い合わせ先:

〒500-8318 岐阜市桜通4-1
[祭]GIFU百人衆 和田浅治
Tel:058-251-2101 Fax:058-253-6505 携帯:090-3157-3315
E-mail:awada@ha-telecom.co.jp
URL:http://www.hatelecom.or.jp/~mg100