塔心礎の歴史 シリーズ第3弾
7世紀から8世紀にわたり、岐阜市内には、4つの大きな寺院が建立されていたことがシリーズ第2弾の岐阜の白鳳寺院のところで、お知らせしましたが、では、岐阜県全域では、どのくらい建立されたのでしょうか?と言う疑問が生じてきます。そこで、今回は、美濃・飛騨の白鳳寺院についてお知らせします。(下記資料2参照。クリックで拡大)
美濃・飛騨の白鳳寺院
仏教が朝鮮半島の百済からヤマトの朝廷に伝えられたのは、538年といわれています。飛鳥時代には、第2弾でお知らせしたとおり、飛鳥寺、法隆寺などの有名な寺院が造営されました。その後、仏教が近畿地方から、美濃飛騨地方にも伝わるに伴い、寺院がそれぞれの地方の豪族たちの手で建立されるようになりました。
美濃の豪族と、ヤマトとの結びつきは、飛鳥川原宮跡に建立された、官寺の川原寺の系統の瓦が、美濃の各地で出土していることからもうかがえる。川原寺の系統の軒丸瓦が出土したのは、弥勒寺跡(関市)、山田寺跡(各務原市)、平蔵寺跡(各務原市)、大隆寺廃寺跡(大野町)、席田廃寺跡(糸貫町)、厚見廃寺跡・大宝廃寺跡・鍵屋廃寺跡(いすれも岐阜市)などである。
飛騨における白鳳期の代表的な寺院跡には、寿楽寺廃寺跡(古川町)、杉崎廃寺跡(古川町)、石橋廃寺跡(国府町)、光寿庵跡(国府町)、三仏寺廃寺跡(高山市)などがある。
こうして、美濃・飛騨には、この時代に古代寺院が、49箇所も建立されている。いかに壬申の乱で勝利した第40代天武天皇に味方し、功績のあった岐阜県内の豪族達が、朝廷からの命を受けて各地に古代寺院を建立し、こうした古代寺院を中心に仏教を拡げていったと思われる。
大宝廃寺の塔心礎もこの時代、岐阜市の中心に建立され、1300年もの時代を経て、今、ここに注目されるに至っている。
しかし、現在の岐阜市の中心あたりに3つもの古代寺院が建っていて三重塔か五重塔が建っている姿を想像するだけで、壮観な景観であったと思われます。ここで、改めて、壬申の乱後の天武天皇の中央集権国家の基礎的国造りが、圧倒的な迫力で岐阜県内でも進んでいったと思われます。
そして、こうした古代寺院の周りには、街中のオベリスクとしての高い塔に人々が集まり、賑わいをみせていただろうし、市場などもあったに違いない。また、仏教を民に説く教育の場としての、金堂・講堂の存在も想像に固くないと思われる。
つまり、塔心礎の塔で民の心をひとつにし、教育を施し、そこで学んだ民が街を発展させていったと想像します。すごい!!

当日は、まず、岐阜市文化センター建設時に見つかった塔心礎(約1300年前)とは?と演題で、岐阜市教育委員会社会教育室の高橋さんから、塔心礎とその時代背景等の歴史的な説明があり、その後、同室の内堀さんから、塔心礎の歴史等を分かりやすく紙芝居(左下の写真)を使って説明がありました。また、同席した岐阜市歴史博物館の高木館長さんから、歴史博物館と塔心礎という演題で、歴史博物館前に展示してある塔心礎の話がありました。
その後、現在の塔心礎をふるさとの岐阜市文化センター周辺にもどす理由や、もどす方法などの初期提案が、発起人から説明があり、岐阜市等からの歴史的な塔心礎の解説と初期提案等に対する、出席者からの質疑と意見交換が実施されました。











