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2008年01月24日

塔心礎の歴史 シリーズ第3弾

7世紀から8世紀にわたり、岐阜市内には、4つの大きな寺院が建立されていたことがシリーズ第2弾の岐阜の白鳳寺院のところで、お知らせしましたが、では、岐阜県全域では、どのくらい建立されたのでしょうか?と言う疑問が生じてきます。そこで、今回は、美濃・飛騨の白鳳寺院についてお知らせします。(下記資料2参照。クリックで拡大)

美濃・飛騨の白鳳寺院

仏教が朝鮮半島の百済からヤマトの朝廷に伝えられたのは、538年といわれています。飛鳥時代には、第2弾でお知らせしたとおり、飛鳥寺、法隆寺などの有名な寺院が造営されました。その後、仏教が近畿地方から、美濃飛騨地方にも伝わるに伴い、寺院がそれぞれの地方の豪族たちの手で建立されるようになりました。

美濃の豪族と、ヤマトとの結びつきは、飛鳥川原宮跡に建立された、官寺の川原寺の系統の瓦が、美濃の各地で出土していることからもうかがえる。川原寺の系統の軒丸瓦が出土したのは、弥勒寺跡(関市)、山田寺跡(各務原市)、平蔵寺跡(各務原市)、大隆寺廃寺跡(大野町)、席田廃寺跡(糸貫町)、厚見廃寺跡・大宝廃寺跡・鍵屋廃寺跡(いすれも岐阜市)などである。

飛騨における白鳳期の代表的な寺院跡には、寿楽寺廃寺跡(古川町)、杉崎廃寺跡(古川町)、石橋廃寺跡(国府町)、光寿庵跡(国府町)、三仏寺廃寺跡(高山市)などがある。

こうして、美濃・飛騨には、この時代に古代寺院が、49箇所も建立されている。いかに壬申の乱で勝利した第40代天武天皇に味方し、功績のあった岐阜県内の豪族達が、朝廷からの命を受けて各地に古代寺院を建立し、こうした古代寺院を中心に仏教を拡げていったと思われる。

大宝廃寺の塔心礎もこの時代、岐阜市の中心に建立され、1300年もの時代を経て、今、ここに注目されるに至っている。

しかし、現在の岐阜市の中心あたりに3つもの古代寺院が建っていて三重塔か五重塔が建っている姿を想像するだけで、壮観な景観であったと思われます。ここで、改めて、壬申の乱後の天武天皇の中央集権国家の基礎的国造りが、圧倒的な迫力で岐阜県内でも進んでいったと思われます。
そして、こうした古代寺院の周りには、街中のオベリスクとしての高い塔に人々が集まり、賑わいをみせていただろうし、市場などもあったに違いない。また、仏教を民に説く教育の場としての、金堂・講堂の存在も想像に固くないと思われる。

つまり、塔心礎の塔で民の心をひとつにし、教育を施し、そこで学んだ民が街を発展させていったと想像します。すごい!!

image 資料2

1月24日中日新聞朝刊に塔心礎会議の記事が掲載されました。

1月24日の中日新聞朝刊に、1月23日に開催されました、「塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)」からその後、正式に「塔心礎から岐阜のまちを考える会」と会議の名前が決定した塔心礎会議のニュース記事(以下新聞記事クリック参照)が、掲載されました。

image 1月24日中日新聞朝刊記事

※インターネットでは、こちらの中日新聞ホームページに同様の記事掲載がございます。

塔心礎の歴史 シリーズ第2弾

このページでは、去る平成20年1月23日(水)に開催された「塔心礎から岐阜のまちを考える会」で、使用されました岐阜市教育委員会提出の資料を元に塔心礎についてお伝えしたいと思います。

今回は、塔心礎の歴史背景についてです。

律令制と美濃

塔心礎ができた時代は、古代・中世のころで、日本では、国の制度が変わり、様々な信仰が生まれた時代でした。7世紀になると、大化の改新、壬申の乱を経ながら、日本は、国家としての体制が整えられていきます。672年の壬申の乱では、美濃の豪族たちが、大海人皇子(おおあまのおおじ)のちの天武天皇側に協力し、勝利に大きく貢献したと伝えられています。

その後、律令制度が次第に整備され、大宝2年(702年)刑法としての「律」と、行政法・民法としての「令」から成る大宝律令が制定されます。これにより日本は、天皇を中心とした中央集権国家の基礎が確立されていきます。

岐阜の白鳳寺院

6世紀中ごろになると、朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来します。奈良では、飛鳥寺、法隆寺などの寺院が建造され、仏教文化が花開きます。仏教は次第に地方へと波及していき、美濃でも7世紀なかば過ぎには最古の寺院が登場します。

白鳳時代に建造された岐阜市周辺の寺院は、4箇所と知られています。いずれも7世紀後半の造営で、厚見廃寺(今の瑞龍寺)、大宝廃寺(今回の塔心礎がみつかった寺)、鍵屋廃寺、長良廃寺です。大宝廃寺では、塔心礎のほかに、軒瓦なども出土している。(詳細は、末尾の資料1を参照クリックで拡大)

これらの寺院は、中央政権から技術的援助のもと、壬申の乱に功績のあったこの地方の豪族が主体となって氏寺として建立したと考えられている。

末尾の資料の中には、厚見廃寺(今の瑞龍寺)にある、塔心礎の写真があり、当時の面影が漂っています。

image 資料1

岐阜市文化センターの工事で見つかった塔心礎 シリーズ第1弾

昭和57年から58年にかけて建設された岐阜市文化センターの工事で見つかった塔心礎は、1300年前、ここに大宝廃寺(だいほうはいじ)というお寺が建っていてその中の三重塔か五重塔か?まだはっきりしないが、その塔の礎石であろうと言われている。(下図参照:岐阜市教育委員会提供。クリックで拡大)

image その発見された塔心礎は、現在は、岐阜市歴史博物館正面玄関右の公園内に展示されている。

形は、上面が平らで、全体は、渋柿を吊るしたような形をしていて、砂岩でできているという。

現在、岐阜市歴史博物館では、同時代に建造された、厚見廃寺(現在の瑞龍寺)に建っていたと言われる五重塔の模型があり、現在でも、梅林の瑞龍寺山門左には、同時期の塔心礎がある。そこで、岐阜市文化センターからも、塔心礎が発見されたことから、厚見廃寺の五重塔のような大宝廃寺(だいほうはいじ)の塔が立っていたのではないかと考えられている。

塔心礎の真ん中には、ほぞ穴(心柱のすべり止めの穴)が空いていて、ここに塔の心柱の根元の部分があったと考えられている。

塔心礎の歴史は、7世紀から8世紀頃で、日本では、壬申の乱後と考えられている。

塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)が開催されました。

去る、平成20年1月23日(水)午後7時より、金神社神社会館で、塔心礎を金公園にもどす会議(仮称)が、関係者約30名(右下の写真)が集まって、最初の会議が行われました。

image 当日は、まず、岐阜市文化センター建設時に見つかった塔心礎(約1300年前)とは?と演題で、岐阜市教育委員会社会教育室の高橋さんから、塔心礎とその時代背景等の歴史的な説明があり、その後、同室の内堀さんから、塔心礎の歴史等を分かりやすく紙芝居(左下の写真)を使って説明がありました。また、同席した岐阜市歴史博物館の高木館長さんから、歴史博物館と塔心礎という演題で、歴史博物館前に展示してある塔心礎の話がありました。

image その後、現在の塔心礎をふるさとの岐阜市文化センター周辺にもどす理由や、もどす方法などの初期提案が、発起人から説明があり、岐阜市等からの歴史的な塔心礎の解説と初期提案等に対する、出席者からの質疑と意見交換が実施されました。

会議の中では、岐阜の歴史を勉強する良い機会で、もっと県外にも発信できるようにしていこう!とか、子ども達にも知らせていこう!とか、岐阜市の中心軸を取り戻す良い機会にしよう!とか、岐阜を楽しく学ぶ機会にていこう!等々の活発な意見交換があった。

最後に、会の名称は、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」と決定し、今後、一般市民に、岐阜の1300年前の歴史を知っていただく機会にし、最初に集まった出席者等から徐々に呼びかけ塔心礎から岐阜のまちの歴史を学ぶ市民の輪を拡げて行こう!と言う事で話し合いがまとまった。

次回の、「塔心礎から岐阜のまちを考える会」は、平成20年2月27日(水)午後7時から金神社神社会館となった。

この件に関する詳しいお問い合わせ先は、下記まで

お問い合わせ先:「塔心礎から岐阜のまちを考える会」 和田まで
メール:awada@ha-telecom.co.jp
                    電話:090-3157-3315

尚、このページでは、塔心礎について、シリーズで当日説明があった歴史資料等を情報発信する予定です。今後をお楽しみに!