塔心礎の歴史 シリーズ第2弾
このページでは、去る平成20年1月23日(水)に開催された「塔心礎から岐阜のまちを考える会」で、使用されました岐阜市教育委員会提出の資料を元に塔心礎についてお伝えしたいと思います。
今回は、塔心礎の歴史背景についてです。
律令制と美濃
塔心礎ができた時代は、古代・中世のころで、日本では、国の制度が変わり、様々な信仰が生まれた時代でした。7世紀になると、大化の改新、壬申の乱を経ながら、日本は、国家としての体制が整えられていきます。672年の壬申の乱では、美濃の豪族たちが、大海人皇子(おおあまのおおじ)のちの天武天皇側に協力し、勝利に大きく貢献したと伝えられています。
その後、律令制度が次第に整備され、大宝2年(702年)刑法としての「律」と、行政法・民法としての「令」から成る大宝律令が制定されます。これにより日本は、天皇を中心とした中央集権国家の基礎が確立されていきます。
岐阜の白鳳寺院
6世紀中ごろになると、朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来します。奈良では、飛鳥寺、法隆寺などの寺院が建造され、仏教文化が花開きます。仏教は次第に地方へと波及していき、美濃でも7世紀なかば過ぎには最古の寺院が登場します。
白鳳時代に建造された岐阜市周辺の寺院は、4箇所と知られています。いずれも7世紀後半の造営で、厚見廃寺(今の瑞龍寺)、大宝廃寺(今回の塔心礎がみつかった寺)、鍵屋廃寺、長良廃寺です。大宝廃寺では、塔心礎のほかに、軒瓦なども出土している。(詳細は、末尾の資料1を参照クリックで拡大)
これらの寺院は、中央政権から技術的援助のもと、壬申の乱に功績のあったこの地方の豪族が主体となって氏寺として建立したと考えられている。
末尾の資料の中には、厚見廃寺(今の瑞龍寺)にある、塔心礎の写真があり、当時の面影が漂っています。












