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2008年04月28日

第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会 開催報告

image 去る平成20年4月26日(土)午後1時30分から、岐阜市の東部コミュニティーセンターにおいて、第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会が開催された。

当日は、まず冒頭、参加者の自己紹介のあと、第3回の塔心礎から岐阜のまちを考える会の報告があり、そのあと本題の議題に入った。

今回で4回目となる塔心礎から岐阜のまちを考える会は、年代的には1300年前の塔心礎が発見された少しあとに、岐阜市内老洞で今から30年前くらいに発掘された須恵器窯 跡の研修と現地見学をすることを重点において開催された。

imageまずはじめに、岐阜市教育委員会社会教育課の高橋さんから、須恵器窯跡が、どのように発見されたか?から話があった。それは、30年前に岐阜市藍川中学校の生徒が、中学校の近所で遊んでいるとき、偶然、落ちていた土器を発見したことによる。この話も興味深いが、それが、古代奈良時代の古窯跡であったことがすごい歴史的発見につながったことで、この地域で、当時多くの土器(須恵器と呼ぶ)が発掘されたということだ。

当日、高橋さんが用意した資料は、以下のとおりで、内ひとつは、老洞古窯についてで、土器には、「美濃」「美濃国」という文字が刻まれていた。つまり、この土器の発見により、この地が美濃とその当時呼ばれていたことを物語る。また、これらの発見により、美濃という地名の起源ともされている重要な発見であった。

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須恵器窯跡は、現在は、埋め戻して当時の面影を残すのみとなっているが、その詳しいレプリカが、東部コミュニティーセンター近くにある「リフレ芥見」の正面玄関に展示してある。高橋さんの話のあと、「リフレ芥見」に参加者全員で、見学となった。

image「 リフレ芥見」の展示場には、須恵器窯跡の発掘された当時の模型と発掘された土器等が展示されている。そこで、高橋さんや同席した岐阜市教育委員会の内堀さんや横田さんからも説明を受けた。展示ケースの中には、「美濃」と刻印された陶印(陶器の印鑑)が展示されていて、歴史的な発見として位置づけられている。

image これらの土器は、岐阜県や愛知県でも、発見されており、塔心礎で古代寺院が建立されていた頃、このような土器を人々が利用して生活していたことをうかがわせる貴重な発見となっている。

その後、参加者たちは、高橋さんたちの案内で、老洞の須恵器窯跡発掘調査現場を見学した。そこは、現在は、岐阜市の和光団地のすぐ南山斜面にある。
image 須恵器窯跡は、山の斜面をうまく利用して登り窯のようになっており、この窯から多くの須恵器が製造されたとみられる。須恵器窯跡から、多くの土器も当時発掘された。

また、須恵器窯跡の近所には、朝倉古窯跡も発見されており、この地の土壌が土器を製造するに適していたことを物語っている。内堀さんの話によると、最近この地で河川工事があった時、河川の中に、白い堆積土が多くみられたimageとの報告もあり、やはりこの地方の川が運んだ堆積土が、土器製造に適していたことが、この地に須恵器窯跡をつくるに至ったのではないか?と推測する。

参加者たちは、その後、再び東部コミュニティーセンターに戻り、見学後の質疑応答 と意見交換を実施した。その中で、参加者から、塔心礎のあったことの生活様式の一部をうかがい知ることができ、大変勉強になった。美濃と地名が、この時代から言われていることに驚きを感じた。自分達のimage 住んでいる地域のことが少しでも知ることができてうれしかった等々の感想が述べられた。また、要望として、発掘調査跡が、現地でよく分かるような案内標識もあるとよかった。など意見がだされた。また、将来的な意見として、歴史と地域の関わり方などの考察してみてはどうか?などの意見も出され、第4回塔心礎から岐阜のまちを考える会は第5回のお知らせをして終了した。

次回第5回は、岐阜市内の塔心礎と同時期に建立された資料が残されている、各務原市埋蔵文化財調査センターで来る平成20年5月31日(土)に開催する予定。詳しくは、このページで紹介します。お楽しみに!